「恥を忍んで思い出を捨てて、そうやって忘れた振りをして同じ過ちを重ねていくのよ。きっと、これからも」
知足だなんてとんとお門違い!
仕事/engineering
day job
分岐のあった2022や2023に比べると落ち着いていたと思う。 それに付随する悔恨がないだけ穏やかだったが、凪をどう捉えるかは人に依る。
主な業務としてAGI極振りだった部分をVITやDEXに振り直す作業を延延とやっていた。 IaCとそれの自動化、O11y、そしてGoogle Cloudまわりについてまた一つ賢くなった。 インフラコスト削減も色色やっていて、チームでの取り組みとして売上比そこそこの割合で改善を施すことができたのもよかった。無駄を嫌え。
少ないながら記事も2つ書いた。
- Datadog AgentをGKE autopilot環境に導入する際のtips
- tfaction v1.3.0ではlocal modulesの更新でtfactionをtriggerできるようになった
年年文章が出てくるまでのスピードが落ちているので、リハビリも兼ねて今年も書けると嬉しい。
反省点する箇所はスケジュール管理。 platform teamという立場上、それぞれのstream-aligned teamとの折衝が発生するのだが、それを織り込んだ線の引き方を学ぶ必要があった。 ことplatform engineeringにおけるproduct managementをどうするかという話は難しく、そのあたりの勘所を養っていかねばならない。 軋轢で死んでしまいそう。 個人的な改善案として、もう少し小さい単位でreviewを挟んでいくことを心掛けたい。
チームとしての最良のパフォーマンスを気にしすぎるがあまり、個人のそれを疎かにしすぎた部分もあった。 ただ他人を押しのけてまで大成したいかと言われるとそうでもないので難しい。 人間には幸せであってほしい。 そのためには喜んで身を退ける……のがよくないんだろう。
FLOSS
FLOSSでのあれこれを始めて最も活動が少ない年だったように思う。 可処分時間の扱いをより私的なことに回したく、Rustを始め様様な活動を縮小したりチームを抜けたりした。 alumniとして小うるさいことを言っていこうと思う。嘘だけど。
FLOSSだけで経済的に自立するのは結構難しい。 engineeringだけではなくbrandingも必要だからだ。 良し悪しはともかく事実として何をやったかというよりは何を喧伝したかで大きく変わる部分があり、そこに迎合できないとbenefactorに見つけてもらえないという問題がある。 広報もFLOSSを助ける手段ではあるのだが、古のインターネット仕草としての嫌儲も邪魔して自分はそこに力を入れる気になれなかった。
それはそれとして、経験としてみると十分有効だし、自分のような”学歴なし・キャリアなし”を補うものとしてかなり強力に作用すると思う。 現況に苦しむ未来ある若人は宣伝含め遮二無二やっていってほしい。 おじさんの屍を越えてくれ。
私事
ライフイベント
結婚した。 一生根無し草だと思っていたので自分でも驚いて、笑っている。今でもそう。 2023は思い立ったが吉日を守らなかったがための悔恨が存在したが、これでうまくその経験を活用できたので無駄にならずよかった。 人生何がどう転ぶかわからないものだ。
LoL
2024年何に一番時間を割いたかを考えるとLoLになると思う。
精神的な依存先を分散させるのがとても苦手なのだが、ここで職場とはまた違った人間関係を構築できたのは僥倖だった。 いろんな人間を知ることが好きなので、普段engineeringだけやっていれば出会うことのない人種と交流できる場としてうまく機能していた。
さておきADCがつらい環境はそろそろやめてほしい。
旅行
2024年は海外にも足を向けられたらと思います。
Yuki Okushi 2024, ‘The state of @JohnTitor, 2023’, oshino.meme, weblog post, 1 Jan, accessed 18 Jan 2025, https://www.oshino.meme/posts/the-state-of-johntitor-2023.
夏にハワイを訪れたので無事達成できた。日差しの強さはあったが比較的過ごしやすく、ビーチやマイ・タイなど”らしい”体験も色色とできた。
冬に訪れたコンラッド大阪は非常に体験がよかった。2024に国内で唯一また行きたいリストに追加されたホテル。
小咄として、外資系ホテルにて白髪カラコン付という装いをやっていると英語で話しかけられることが多いというのがあり、少し面白い。辿辿しいと日本語に切り替えられ、そうなると負けた気分になる。今年は負けたくない。
2、3年ぶりにクリスマスマーケットにも行った。久久に飲んだグリューワインは別世界の味がした。
今後
『悪の教典』には、意気揚揚と海を渡った蓮実(主人公)がより強大な存在に打ちひしがれて、自分が踊れる舞台はここではないと悟る描写がある。結局彼は強者に怯えるホオジロザメではなく、メガロドンとして舞うことのできる場所として日本の高校を選んだ。 そういう悟りで楽になる反面、泳ぎ続けていないと死んでしまうという恐怖もある。 何が相応しいんだろう。
「おみゃーは剃刀みてぇでよ、切れ味はいいんだがちょっとしたことですぐ折れちまう。ナタみてぇに鈍くても巨木相手にびくともしねぇやつが結局世の中生き残っていくもんさ」といった話をされた。 なるほど生きる上ではそういう感性が大事なのかもしれない。楽でもある。 ただそういう図太さみたいなもので何かが見えなくなってしまったら、それこそ生きている意味がない。 今見えている綺麗なものを一生愛でていたい。 壁に向かってする誰に向けたものでもないビクトリーポーズを、まだやめたくない。
今の僕はどうだろう。残照を振り切って正しく踊れているだろうか。忍ぶものも、もう見えなくなってしまっただろうか。